無我〜後編〜

 

 話の概要はこうだった。

 年始の折、伯父が久々に三郎太の話題に触れた。

 枯華院に三郎太を託してはや数年、そろそろ赦して家に戻してやってはどうかという。

 三郎太が半殺しの目に遭わせた――と言っても、素手の喧嘩で負かした相手に斬られたから余計に殴ったのだが――先方との関係は、三郎太を寺に預けたことと、伯父を始めとした一族の奔走で、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 三郎太の気質からして、呼び戻したら戻したで元の木阿弥になりはすまいかと、親族の誰もがそれを懸念して気乗りしない様子であった。

 が、嫡男でありながら弟に家督を譲って隠居した伯父が言うことでもあり、兄に常々負い目を感じている父は、渋々ながら承諾した。

 現在はその父も隠居して長男が家長となっているのだが、父の意を酌み、「住職の一存に任せよう」と、四郎右衛門を使わしたのだという。

 

「……なるほど」

 話を聞き終えた和狆は、そう呟いて、すっかり温んだ茶を啜った。四郎右衛門もそれに倣うが、一口飲んで、形のいい眉を微かにしかめる。

 骸羅に茶を煎れさせると、その気分がすぐ判る。今のように異常に渋い時は、骸羅にしては珍しく考え事をしているときだ。よほど弟の話が気掛りなのだろう、と和狆は思う。もう一口啜ってみて、こんな不味い茶に慣れてしまった己に心の中で苦笑いした。

 5年近い歳月が経った今も、骸羅の喧嘩癖と口の悪さは直らない。

 だが少しずつでも、変わってきているのは確かなのだ。

 ある幽鬼を成仏させてやりたいと、神妙な面持ちで相談してきたときも。

 自らの意思で、「鬼」を弔おうと塚を築いたときも。

 和狆が使う陰陽術を、見様見真似で身につけようと秘かに鍛錬していることも。

――もうそんなに経つか……。

 和狆は湯呑みを手にしたまま、庭先に目をやった。

 一際目を惹く、見事な枝振りの松がある。だが無惨にも、その枝の一本が中程から裂けてしまっていた。

 以前、庭掃除の仕方でちょっとした言い合いになった際に骸羅が誤って折ったものだ。和狆のお気に入りだっただけに、ただの口論が拳と式神の飛び交う大喧嘩にまで発展したのは言うまでもない。

 恥ずかしいことに、珍しく寺に顔を見せていた黒子が、この部屋から一部始終を見物していた。

『だいたいおぬしは、慈しみの心というものが――』

『一切無常とか抜かしながら、物に執着しやがって――』

 傷だらけの痣だらけで、ふらふらになりながらもまだ罵りあう二人を、頃合いと見た黒子が執り成してくれた。

『いやあ、相変わらず仲がよろしいですね。妬けちゃいますよ』

 それにもむきになって言い返す和狆と骸羅に、黒子はただ笑っていた。

 

 御堂の方から大きなくしゃみが響き渡り、そこで和狆は我に返った。

 目の前の少年は、黙ってこちらの口元を見つめている。

「これはこれは、失礼いたした。年のせいか、どうも物思いに耽る癖がついてしまっていかん」

 四郎右衛門に詫びてから、和狆は御堂に様子を見に行った。

 本尊の前に、骸羅が小山のように鎮座している。珍しく言われた通りに瞑想していたらしい。

 しかし和狆はすぐには声をかけず、しばらくその広い背中を見つめていた。

「? なんだ、話は済んだのか」

 気配を感じた骸羅が、首を捻って訊いてきた。

「……うむ、弟御を待たせておるでな。あちらで話そう」

 

「骸羅――いや、三郎太よ。四郎右衛門殿は、おぬしを迎えに来た。修行は本日を以て終いじゃ」

「……なっ」

 和狆の言葉に骸羅は一瞬ぽかんとし、すぐに引きつった笑いを浮かべた。

「突然来て、こそこそ何を話してるかと思やぁ……そんなことかよ?」

 多少の非難を込めた目で弟を見やるが、四郎右衛門も、老僧がいきなり結論を出していることに驚いている風だ。 

「第一、今更どのツラ下げて戻――」

「おぬしの面目など、最初からあってないようなものじゃ。明朝一緒に発て。支度をしておくのじゃぞ。よいな」

 和狆の目に有無を言わさぬ強い光を感じ、骸羅の声が一段と低くなる。

「――ジジイ、本気で言ってるのか」

「無論」

 いきなり骸羅の両腕が伸びて、和狆の胸倉を掴んだ。

「ふざけんなっ! 勝手に話進めてんじゃねえ! はいそうですかって、出て行けるもんかよ!?」

 噛みつかんばかりに顔を寄せて怒鳴る骸羅を、和狆が静かに諭す。

「この機を逃せば、おぬしは俗(ぞく)には戻れまい。ものの分別も付かぬまま預けられた5年前とは違う。今ならまだ、十分やり直せるであろう」

「な、何言ってやがる! 俺が……邪魔なのか!? なら邪魔ってはっきり言ったらどうだ! ええ!?」

「…………」

 それには和狆は口を開かなかった。

 邪魔なはずなどあるものか。

 ある時は本気で叱り、ある時は本気で腹を立て、疎ましくも、愛おしくも思った、孫にも等しい存在。

 だからこそ、どうして引き留めることができよう。

 生家には彼を案ずる伯父がいる。彼を慕う弟がいる。

 天涯孤独の身の上である和狆には望んでも得られない、血の繋がりがそこにあった。

「やり直せだと? ははは……」

 骸羅は乾いた声で笑うと、和狆から手を離した。

 四郎右衛門は、固唾を呑んで二人のやりとりを見守っている。とても口を差し挟める雰囲気ではなかった。

 骸羅は険しい面持ちで和狆と四郎右衛門を交互に見ていたが、何を思ったか、不意に立ち上がって庭へ飛び降りた。

 訳も分からず見ている二人を尻目に、素手で築山の陰を掘り返し始める。

 しばらくして、油紙で何重にもくるんだ細長い包みを手に戻ってきた。

「……確かによ、最初は分別も何もねえハナタレだった。好きでここへ来た訳じゃなかった」

 骸羅の口ぶりは、自身への嘲笑にも似た響きがあった。

「だが今日まで、俺が何も考えずに、ここにいたとでも思ってんのか」

 包みを開いて、二人の眼前に突き出す。

 

 中身は、大小二振りの刀と、髻で切り落とされた髪だった。

 

 和狆も四郎右衛門も、これが骸羅の――三郎太の物だと、一目で分かった。

「こいつを埋めた時から、そしてこれからも、俺は、枯華院の花諷院骸羅だ! 覚えとけ!」

「……兄上……」

 虚ろな目でそれを見つめながら、四郎右衛門が喉から絞り出すような声で言った。

「覚悟はしておりました。ご自分で髪を切られたと、聞かされた――」

 そこから先は言葉が続かなかった。それまで気丈に振る舞ってきた少年の、緊張の糸が切れた。

 骸羅が見かねて抱え起こすまで、四郎右衛門はその場に突っ伏して男泣きに泣いた。

 

 翌朝早く、少年は寺を辞した。

 来たときと同じように、骸羅がむっつりとその後に付いていく。

 昨夜は和狆の計らいで、枕を並べて眠った――と言っても、実際には、どちらもまんじりともしなかった。四郎右衛門は何か憑かれでもしたように喋り通し、骸羅はただそれに相槌を打つ、といった感じで、そのまま夜が明けたものだ。

 三人の兄とは、誰とも仲良くやってきた末弟だった。

 沈着冷静な一兄は憧れだった。博学な次兄を尊敬していた。男らしい三兄が好きだった。

 皆それぞれに兄らしく、四郎右衛門の自慢だった。また皆で暮らせたら――夢は、夢で終わった。

「俺はここまでだ」

 山門の所まで来て、骸羅は歩みを止めた。四郎右衛門が笠に手をかけ、骸羅を見返る。

 ひんやりとした山の空気が、二人を包んだ。

「じゃ、達者でな」

「はい。三兄も……」

 託かった包みを固く腕に抱き、言葉少なに深々と頭を下げる四郎右衛門に、骸羅は口をへの字にして頭を掻いた。気持ちは同じだが、辛気臭い別れにだけはしたくなかった。

「まあその、あれだ。そんな離れてるわけじゃないんだしよ、また気が向いたら遊びにこいや」

「……そう、ですね」

「今生の別れじゃあるまいに、いつまでもしょげてんな! お前、ツラに似合わず××い××××てたろ」

「くくっ……三兄、そんなことばかり言っていると、住職に大目玉を食らいますよ」

 ようやく笑顔が戻った弟に、内心ほっとする。 

「伯父貴にはすまんかったと伝えてくれ。あと――」

 骸羅は宙を見据えて一瞬口ごもったが、

「お前の、父上と母上に。……精々孝行してやれよ!」

 言って、にいっと笑うと、手形がつきそうなくらい強く四郎右衛門の背中を張った。わざとだった。

 

 振り返り振り返り、何度も手を振りながら去っていく弟の姿が朝靄に紛れて見えなくなるまで、骸羅は山門に仁王立ちのまま動かなかった。

 気がつくと、いつからそこにいたのか、横に和狆も立って同じ方角を見やっている。

「……。なあ、和尚」

 骸羅は少年の姿が見えなくなった辺りを睨んだまま、訊いた。

「来世で俺が……運良く人に生まれ変わったとして、だ。……また、あいつと兄弟になるってことはあるんだろうか」

「ん。ない……とは言いきれんの」

「そうか」

「どうした、今になって里心でもつきおったか?」

 和狆の探りに、骸羅は鼻で笑った。

「へっ、だったらここに居るもんかよ。……さあて、寝なおすか!」

 踵を返す骸羅の背に、すかさず和狆の声が飛ぶ。

「これ! ちゃんと朝の御勤めをせんか!」

「昨夜寝られなかったんだよ! 一日くらい勘弁してくれたって罰は当たらんだろ!」

「朝起きは三文の徳、常々申しておろう」

「三文ぽっちじゃ三途の川も渡れねえ」

「しみったれたことを申すでない。ほれ、おぬしも感じるじゃろ。この清々しい――」

「老い先短いから、時間が惜しくて朝も早くなるって寸法か……あ痛ッ!」

「弟御の爪の垢でも分けて貰えば良かったの」

「いちいち殴るなこのクソジジイ!」

 いがみ合う大小二つの影が、山門の向こうに消えた。

 

解説

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